地域社会と環境・福祉政策
-新たなシンクタンクの志と戦略-
環境と福祉は地方行政の主要な事業分野であり、その比重は今後ますます高まっていくものと予測される。実際、これまでも地方自治体は少なからぬ予算を割いてよりよい福祉社会、地域環境の整備に施策を重ねてきたのである。
ところが、とどまるところを知らない高齢化と自治体財源の逼迫を背景に、環境と福祉にかかわる地方行政はいま大きな曲がり角に立たされている。地方における環境と福祉の計画や施策は、わが国地域社会の大きな曲がり角を見すえたうえで、21世紀の町づくり、国づくりに向けた志とビジョンとを住民にも行政担当者にも提示できるものでなければならない。
福祉社会はいま
地方行政の急激な再編が迫られているのは、まずは福祉事業の分野である。二年後(平成12年度)に介護保険制度が実施に移されるからである。介護保険事業計画の策定など、そのための諸準備が自治体単位ですでに始められており、この過程で行く先の見えない混乱と利害対立が誰の目にも明らかになりつつある。介護保険制度はもとより福祉の「白紙」に移植されるものではない。地域社会にはゴールドプランを頂点に、戦後営々として積み上げられてきた老人福祉のパラダイムと制度がすでに存在する。それが、今日見慣れた福祉社会の姿である。介護保険制度は上からの行政的改革にも似て、このアンシャンレジームの解体と再編を迫っている。
介護保険制度のもとでは、行政の福祉サービスは原則として「要介護者」(福祉弱者)の心身機能の評価に基づいて給付される。これがナショナル・スタンダードとしての「標準サービス」の思想である。経過的には保険対象サービスの「上乗せ」がありうるとしても、それはあくまで原則外のことであり、財源難にもかかわらずこれを続けられる自治体は例外的な存在となるだろう。
ところが周知のように、これまでの福祉行政は補助金と一般財源を割いて、まさに多彩なサービスを上乗せする形で運営されてきた。ときに「ばらまき福祉」と非難されるところである。老人福祉では「寝たきり手当」などの現金給付、一人暮らしの高齢者へのヘルパー派遣事業、特別養護老人ホームなど社会福祉法人にたいする補助金による買い支え、等々。今後、これらは介護保険制度から排除される。特養等の入所者は「要介護認定基準」だけに基づいて選別される。地域の老人やその家族にしてみれば、まさしく「これまでのサービスはどうなるのか」と行政に迫らずにはいられない。
それだけではない。これまでの福祉サービスは、地方議員を先頭に「福祉の切り捨て反対」を唱え続けた人々の「闘いの成果」として、蓄積されてきたのである。それは住民の既得権であるとともに、そのために闘ってきた政治勢力の強固な既得権益、場合によっては利権としても存在している。介護保険制度はこれら既得権益をアンシャンレジームとみなすのだから、介護保険制度導入にともなう地域社会の混乱と対立は単に福祉政策にとどまらず、地域の政治的な構造に波及するのは必至である。
この事態に、当該自治体の行政、ひいては地域住民はどのように対処するだろうか。厚生省のマニュアルどおりに「介護保険事業計画」を策定すれば済む問題ではありえない。住民もまたこの計画策定に「参加」すればいいというものではない。介護保険制度を不可避の与件としたうえで、21世紀を見すえた福祉社会、地域社会のビジョンを提示して既得権益との闘いを組織するほかない。そのために行政は住民を味方に付け、住民を動員する必要がある。
もっと根本的なことだが、地域住民本体が福祉政策を評価する目を養い、福祉社会を自らつくる力を蓄え、さらに福祉事業の一翼を担うまでに自己形成することを目指すべきである。
そのためにNPOは、ボランティアではなく事業主体として構想されることが重要である。自らのミッションを貫徹するためにも、NPO自らの事業基盤を確立することが不可欠だからである。
以上のような見通しの中で、地域政策を手助けする政策集団もまた構想されるであろう。
地域環境はいま
今年、地域環境づくりのひとつのモデルが登場して、全国の自治体関係者に大きなインパクトを与えている。視察と講演の依頼がひきも切らない状態が続いている、山形県長井市(人口3.3万人)の「レインボープラン」である。
レインボープランが大きな反響を呼んだきっかけは、長井市が市の生ゴミを一か所に集めて堆肥化することを始めたからである。「ゴミ問題」こそは、規模の大小を問わず現在地方自治体が直面する共通の、最大の環境問題である。増え続けるゴミの処理場・焼却場のパンク、廃棄物と焼却灰の県外移動と違法投棄、分別収集とリサイクル、ダイオキシンによる環境汚染など。いずれも自治体財源を圧迫し、近い将来ゴミ収集の有料化は避けられず、全住民に直接関わる問題になる。
こうしたなかで、少なくとも事業所と家庭から出る生ゴミは、捨てるのではなく堆肥化して資源として役立てたい。ゴミの減量になるだけでなく、ダイオキシン対策としてもアピールできる。生ゴミは焼却場の温度を下げ、また塩分を大量に含むため、焼却過程でのダイオキシンの発生につながるからだ。行政にこのような関心が高まっているおりの、長井市レインボープランの登場であった。
けれども、レインボープランの真のインパクトは「生ゴミ」ではなく、「循環」というその思想と実験にある。市民は生ゴミを厳重に分別し、行政がこれを市の堆肥センターに集めて堆肥化し、この堆肥を農家が使って有機農産物を生産して市民に直接販売する、……という生ゴミの地域資源循環システムである。「循環思想」はしかし、従来のゴミ行政とは全くちがった発想と施策を自治体に、そして住民に要求する。堆肥製造装置を購入して収集した生ゴミを堆肥にする。あるいはペットボトルや古紙を集めて処理業者に渡してリサイクルする。そこまでが行政の仕事だというふうにはいかないのである。地域社会のシステムそのものを見直して再編することが必要になる。
「生ゴミ堆肥化」は下水道とはちがう。行政は立派な堆肥センターを建てることはできる。だが、この施設が働くためには生ゴミに混ぜて発酵を促進する畜産の糞が必用であり、できた堆肥を使用する有機農家が存在しなければならない。そう考えてあわてて周りを見回しても、畜産農家はとうに絶滅しており有機農業もあってなきがごとき状況である。そのような地域社会のありさまをあらためて発見することになる。ことは地域の、そして国の農業政策の将来に関わってくる。
他方、ゴミの分別収集すら行われていない自治体がなお多く、市民はすっかり使い捨ての文明生活に馴れてしまっている。面倒な分別収集をして家庭の生ゴミを農家の堆肥に役立てることに合意が得られるには、行政のかけ声だけでは済まない。住民自らが自主的に参加して「循環思想」を現実化するように、行政からも働きかけねばならない。さらに、生ゴミ堆肥を使用した有機農産物はきちんと認証して流通に渡し、目に見える形で住民に還元する必要がある。堆肥を高度に熟成させ、有機農業が額面通りに行われるためには、この国がとうに忘れてしまった「農業技術」を再発掘することも欠かせない。
つまり、「生ゴミの堆肥化」ひとつをとっても、「リサイクル」の環境行政を展開するためには、循環を忘れてしまった地域社会の現状を直視せざるをえない。農業の観点でみればレインボープランはなお象徴的なモデルにすぎないが、これが実現するまでには農家、行政、そして住民運動を結び付けて育てる長い努力があったのである。見習うべきは「生ゴミ堆肥化」の陰に隠れた、このような地域社会と行政の循環システム化のほうであろう。そうでなければ、下水道のようにまず高価な土木施設を導入するという行政のあり方が打ち破れない。既得権益はここでも温存される。環境行政はもうそのようにはいかない、そのような時代認識が生まれている。
地域政策とはなにか
これまでに例示したようなタイプの地域社会の問題に、行政は、あるいは住民はどう対処すべきであろうか。なによりも「地域政策」というものを、これまでとはちがった観点で据えることから始めなければならない。それは、地域社会の独自のビジョンを掲げること、そのもとでNPOなど住民の組織を地域政策の不可分の要素として据えることの二点に要約される。
この四半世紀は、高度成長期が終わって、地域社会の解体過程が緩やかに進行する時代であった。政治の保革対立体制が風化の度を深め、ついに55年体制の崩壊を迎えた。公害問題や農地の複合汚染が顕在化したが、それに代わる町づくりのモデルは出現していない。米の減反政策が強化されて、農業の高齢化が進む中、ガットからWTO体制への移行に直面することになる。地方財政の悪化には回復のめどは立たず、福祉・環境と財源の相克は深まっていく。この現状をもってして、地域社会は21世紀の人類史的な課題(高齢化と地球環境問題)に直面しなければならない。老人福祉政策も環境政策も、先に例示したごとく、地域社会のスタトウス・クオの改革と深く絡んだものでしかありえない。
この四半世紀には、地方行政は以前と比べれば政党間の対立や住民運動から離れたところで、施策をこなしていく手法を身に付けたであろう。「お役所仕事」で間に合ったのである。外部のコンサルタントに調査や計画を委託する場合も、国のマニュアル通りにきれいな絵を描かせればいい。地域環境計画も都市計画や建築を専門とするコンサルタントが、町の観光マップと似たりよったりに仕上げてくれる。
老人福祉政策でいえば、介護保険体制は動かせない前提である。そこで行政が直面するのは、福祉の既得権益とどう闘いながら介護保険制度を定着させるかという、高度に「政治的な」課題である。福祉を利権とする勢力との関係だけではない。介護保険制度のもとでも、むろん福祉弱者がこれまで以上に護られねばならない。
他方では、民間企業だけでなくむしろNPO組織により、ホームヘルパーなどの自前の養成がはかられ、地域社会での事業化に進出しようとしている。このような働きを福祉政策の一翼として育成し、さらに保険制度のもとで取り残される弱者のサービスにまでNPOを動員するには、行政はどんな言葉と手法で工作したらいいのか。これは行政にとっても、地域政策のコンサルタントにとっても初めての経験である。
地域政策に関して、行政と住民運動が体制と反体制の関係で対立する時代は終わっている。住民組織のほうでも狭い利害でなく地域社会の利益のために、地域社会のあるべきビジョンを出し、行政と共闘する知力と技術と志とが求められている。
環境政策でも同じことがいえる。長井市のレインボープランのような資源の地域循環システムを構想し、実現するには循環の絵を描くだけでは何の役にも立たない。これまでの行政には箱もの主義の一方向的な環境政策が定着しており、その周りには土地や政治家の利権構造が張り付いている。そこに、農民と市民の判断を導入しようというのである。農民に堆肥を利用した資源循環型農業を始める機運ができたとしても、地域農協の多くは自らの危機とこれを受け取るだろう。農協は広域合併が進んでおり、域内での-自治体の新構想は巨大な農協の前で立ちすくんでしまう。しかし農協もまた生き残りをかけて変わりつつある。現状は地域差が目だっており、地域ごと諸勢力の慎重な調査のうえに介入の方針が立てられねばならない。
これからの地域政策の立案に向けて、政策集団はもはや行政から「お絵描き」を請け負うものでは通用しない。あえていえば、新たな「国づくり」のビジョンから逆に「町づくり」を構想し、そのための「地方党」の形成までも見通すものでなければならないだろう。
地域政策には「技術」が必要
長井市のレインボープランをもう一度取り上げてみよう。生ゴミを集めて堆肥にする。ところが、堆肥発酵はいまでは農民すら忘れてしまった技術なのである。確かに、高価な堆肥発酵装置が市販されているが、これは農業の伝統的な知恵とは切れたところで作られた工業製品であり、事実、長井市の場合も悪臭と廃液の公害を残すハードウエアにすぎない。
当然、これでは完熟堆肥はできず、農家に安心して使ってはもらえない。その農家でも、堆肥を活用した有機農業の技術は忘れられており、あらためて学習が必要な技能に属する。総じて、生ゴミの資源循環は技術が伴わねば回らない。そしてこの技術とは、ハイテク工業製品を導入すれば済むような技術ではない。工業技術がいまにいたるも対応できていない生き物相手の技術であり、技術を運用するソフトウエアなのである。廃水処理や下水道の技術についても同様である。
地域環境政策は文明生活が出す大量の廃棄物と、農薬など自然界にはない化学合成物質による環境汚染を防止することにある。さらに、地域社会に残る自然生態系を保全し、あるいは積極的に地域に導入する。これらの中でも根幹をなすのは地域の生態系を必須の環とした物質循環をシステムとして回すことである。そのために技術が要る。ところが、生態系こそは、これまでのエンジニアリングが無能をさらす領域なのである。従来の都市計画にかけているのもこの点である。ここに新しいタイプの科学技術が必要になる。
生態系以外、いわゆる産業廃棄物の処理に関しても、使い捨てでなく資源循環(リサイクル)の技術を極力導入しなければならない。そのためには白然観と文明観の変更が要る。まさしく、自然観を変え、技術を変え、生活や生産の仕方を変えることだ。
循環という思想に支えられた新しい科学技術はどこにあるか、地域環境政策はかような技術を見つけだし、技術者集団を手当し、新たな自然観と技術にたいする地域住民の支持を動員できるものでなければならない。
他方、福祉政策の場合はどうだろうか。介護保険制度の導入により、福祉と医療の概念や領域を区別し、その上であらためて「医療と福祉の連携」を再構築することが必要になる。医療には医学専門職の医療技術がある。これと区別された福祉に、どんな技術が残されているのか。
現在の医学も医療技術も近代という時代の歴史的産物であり、健康のための技術一般を意味するものではない。「病気」とその「治療」の独特な見方がそこにあり、「医学モデル」と呼ばれる。このモデルの制約のもとに、「病気を診て病人を診ない」ことはよくも悪しくも現代の医療体系の基本的性格となっている。わが国の医療体系はとりわけこの性格が著しく、反面、この体系以外に広域な民間医療の「闇の」領域を流行させてもいる。そして近年、この医療体系の限界がますます明らかになるなかで、介護と福祉の領域が医療とは別のものとして分離したのである。
実際、高齢化社会のもと病気の後遺障害、生活習慣病、そして原因不明の体調の悪さ、老化に伴う能力低下などがますます大きな社会問題となっている。これらは医学モデルに基づいて「病気を直す」ことができない領域であり、病者や弱者の心身「機能」を維持向上することが眼目になる。このような機能向上がリハビリテーションに、あるいはもっと一般に、「介護」に委ねられている。それゆえ、介護サービスとは「弱者救済」のボランティアやお手伝いではなく、ひとつのプロフェッションたるべき領域である。高度な介護により要介護者の機能的な自立を促進し、家族介護の負担と地域社会の福祉財源を軽減するのである。介護はだから技術であり事業である。
介護は医学モデルのような、専門家という外部からの一方的な関係ではなく、「介護する人」と「される人」、総じて「あなたと私(たち)の共同」の作業として始めて成立する。
本来、リハビリテーション医療を支える専門職(医師、理学、作業療法士、看護婦など)は、その専門知識と技術を活かして地域社会の介護の高度化に役立つべき存在である。けれども従来、ことにわが国では、リハビリテーション医療はもっぱら医療施設で行われており、その専門職も医療のヒエラルキーのもとに囲い込まれている。介護の技術が地域で独自に展開できる体制にはない。介護技術の質も医療技術とは別のものとして認められ、質を高め、介護専門職に共有されるにいたってはいない。そのような介護技術はどこにあるのか。
今、介護技術は自らを語る言葉を持っていない。例えば、ホームヘルパー研修はオムツの交換やベッドの整え方、そして寝返りの補助と個々の動作の反復訓練と「心構え」に二極分化する。
実はこの「心構え」としてひと括りにされる領域に、関係性(共同性)の構築という介護の固有の技術(スキル)が存在している。
介護保険の導入に向けて、福祉社会の大きな再編が始まっている。新たな福祉政策はまた新しい介護技術の獲得に裏付けられねばならない。行政やNPOがこれまでの介護技術を評価し、技術を選び、自らの技術の向上が計られるように、福祉の地域政策は援助すべきである。
新たな政策集団の組織に向けて
21世紀に向けて地域政策のあるべき方向を、環境と福祉を主題として以上に提起した。地域政策につき、このような問題の立て方に賛同がえられるだろうか。行政の政策担当者やシンクタンクの専門家の多くは、二の足を踏むであろうか。それに、いますぐこの線で政策の立案と実施に踏み出す自治体が、全国一律に存在するはずがない。しかし、にもかかわらず、高齢化と地域環境問題という人類史的な課題に直面する時代を迎えて、専門知識と技術を新たな方向に収数させたいと願うプロフェッショナルが見つからないはずはない。新たな地域政策の展開に向けて一歩を踏み出さんとする自治体が、どこにもありえないとどうして言えようか。
政治、福祉、環境、農家、流通、都市計画、そして技術などの専門分野で同志を見いだし、地域政策の志とビジョンにつき話ができるネットワークの形成から始めよう。いくつかのモデル地域を選定して調査し、政策のビジョンとマニュアルを具体化することから仕事に取りかかろう。モデルケースは必要なエキスパートの分野を明らかにし、人材のリクルートが始められるだろう。これが、事例の拡大につながるだろう。このようにして、バーチャルなネットワーク組織として、政策集団の形が見えてくるはずである。
1998年12月
長崎浩・佐藤義夫
連絡先:03-3991-8440 info@seikatukaigo.co.jp(日本生活介護)