本来は「当事者ではない者」のはずが……
第三者評価において第三者とは、事業者でも利用 者でもない者、つまり「当事者ではない者」として定義 される。そこに期待されているのは、公正・中立、客観性等、感情と利害の排除である。従来、学識経験 者などがこうした役割を占めていたことは周知のこと である。
一方の当事者はどうか。事業者には「限られた予算や収入の中で所与の目的を達成するために活動を行う」という合理性があり、利用者の側にも福祉の受 け手としての切実な要求があり、それは社会において一定の合理性を有していると考えられている。
時に事業者の主張する合理性は、儲け主義などがやり玉にあがり、一方、利用者の過剰な欲求もまたエゴイズムとして批判される。
このように当事者たちにおいては、相互に異なった利害があり、それがそれぞれの合理性の上に主張さ れる。である以上、通常はそこに妥協がない限り事業者と利用者は対立し「闘争」が生じる。サービス供給の合理性と受け手の合理性との闘いである(通常、 ほとんどの場合は利用者が妥協する)。
このような中で第三者は、サービスの供給側と受け手の境界を明らかにし、「社会的な合意」を形成する。 いわば、特殊利害を普遍利害へと媒介する存在として登場する。
現状の第三者評価について奇妙に思うのは、この点が巧妙にずらされていることである。第三者評価では繰り返し「“利用者の立場”から評価する」と繰り返す。既に評価者は第三者ではなくなっている。利用者の立場に立つと宣言されている以上、評価は、いかに利用者の要求に対して応えるのかということが問題となる。そこには、経済的な制約も技術的な制約も一切顧慮されることはない。いわゆる「満足度調査」が 評価の基本的な手法となる。
このように、現状の第三者評価の正当性の根拠が、 利用者の満足度に依存している以上、利用者の満足度を客観的に測定できる尺度さえあればよい。そしてその尺度は、だれが行っても結果が同じになるようなものとして想定されている。だとすれば、既に、評価を行う第三者はだれであってもよいのだ。
しかし、それでもなお第三者という当事者以外の存在が重要だとするのなら、それは調査に虚偽が入 り込むことを防ぐためということに他ならない。第三者評価は事業者の嘘を暴くための装置でしかなく、これまでのような行政や専門家による評価では癒着の結果ごまかされてしまうから、事業者と利害を共にしない市民がよいのだと言っているにすぎない。
市民参加と「コンセンサス会議」
確かに、利用者の立場に根拠を置くことを明確にすれば、その限りでの評価は十分に可能であろう。し かし、そうした評価がどのような意味を持つのかについては少しも明らかではない。利用者が十二分な満足を得るためにはどの程度のコストがかかり、それを実際のところだれが負担するのか。また一方では、例えば老人保健施設のように利用者の要求と施設の目的とが乖離している場合はどうなるのか――といった問題はほとんど議論されていない。
あるいは、もう少し技術的な問題もある。利用者の満足というものは、実はそれほど自明のことではない。だから、微に入り細に入った基準をつくったとしても、「満足度」というものの存在はあやふやなままだ。 かくして、基準はさらに緻密化する。
実効ある評価は「社会的な合意」を背景にして初めて成立する。その合意を抜きにして「利用者の要求だから常に正しく、是認されるべきだ」などとは言えない。そうである以上、評価の問題は再び、評価という行為を行う主体、つまり第三者とはだれのことなのかという議論に差し戻される。実際に第三者として利用者と事業者を評価し、社会的な合意をつくり出すことが可能のなのは「市民」 だけである。それは、市民がタックスペイヤー (納税者)の立場にあるからである。「利用者本位の介護」を利用・提供するという目的のために税あるいは保険料を負担する市民だけが、そうした負担がきちんと使われているかという自らの利害を前提として、当事者たちの主張する合理性について判断することができる(もちろん、サービス利用料の全額が自己負担でまかなわれている場合は、最終的に自己責任をとるのは消費者なのだから、そこに市民が介入する余地は基本的にはない。そこで問題になるのは提供されるサービスが合法かどうか、あるいは契約どおりに行われているかどうかという「警察」と「公正取引委員会」の機能である)。
さて、近年、環境問題や生命科学にあっては、市民の合意形成を促すための「コンセンサス会議」と呼ぶ手法が試みられている。これは市民参加によるテクノロジーのアセスメントの一つの方式で、1980年代にデンマークで生まれた。例えば、DNA治療などの新しいテクノロジーを評価しコンセンサス(合意)を生み出す人々を、「専門家」ではなく「市民」としたことに特徴がある。その方法は、利害の対立する両者を呼んで徹底的に討論を行い、最終的には参加した市民が文書を残すというものであり、簡単に言えば陪審員制度に近いと考えることができるだろう。
現状の第三者評価は、ないよりはあった方がよいというレベルで語られすぎてはいないだろうか。さまざまな矛盾を矛盾として自覚しながら、たとえ未成熟な評価であっても「評価を受けた施設が良い施設として市場に選ばれるのだ」といったように、本質的な問題についてはその解決を「市場原理」に気楽に委ねている。しかし、本当のところ「市場原理」はそのように機能するのだろうか。
第三者評価を真に実効あるものにするにはまず、「満足度の評価項目」について社会的な合意の枠組みをつくることが必要である。とりわけ介護というものは相互の関係の中で実施されるのだから、利用者を 「サービスを一方的に受けるだけの立場」と規定した上での介入は、現場にとってはかえって迷惑な存在となるだろう。
実はそのとき重要なのは、対立する当事者を集めてオルガナイズ(組織化)する専門的な立場である。それは、当事者たちの合理性を判断するメタレベル(形而上)での立場であり、今回の問題に即して言えば、利用者の側に立たない立場ということができよう。第三者評価に求められているのは、福祉の専門家にも市民にも任せておけないレベルの知識の集積に他ならない。そこで明らかになるのは、利用者がいくら望んだとしても“できないことはできない”という、当事者からは出てこない「自由の制限」に対する根拠である。
月刊ケアマネジメント 2003.2157