団塊世代の呼びかけに応えて

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団塊の世代の呼びかけに応えて

ケア労働者はスキルのギルドを形成せよ。そして団塊の世代はこのギルドを支援せよ。

ケア労働研究会

2025年の危機

 2025年は「団塊の世代」800万人が全員75歳以上の後期高齢者となる年であり、超高齢社会の到来が現実的なものとなる。その時、高齢者人口は3,500万人、後期高齢者人口は2,180万人となり、3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上となる。
 少子高齢化の進行は、一人暮らしの高齢者や貧困高齢者の増加、限界集落の増加などをもたらすと同時に、生産年齢人口の減少など支える側への影響も大きい。医療福祉分野においても就業者は増加する高齢者に追い付かず、2025年には必要とされる就業者940万人のうち100万人が不足すると言われている(厚労省)。
 また、医療・福祉・年金を支える社会保障費はおおよそ2018年の121兆円から140兆円となる(財務省)とますます増加していくことも周知のとおりである。そんな中で就職氷河期に端を発した、80代の親がひきこもり中年者の子供を支える「8050問題」なども今後大きな課題となるだろう。

 こうした2025年の危機に際して、団塊の世代により老若連携が呼びかけられている(続全共闘白書編集委員会)。
 過日のシンポジウム(2022.9.19)において、目を引くのが「物分かりの良い老人にならないと団塊の世代は見捨てられる!?」というサブタイトルである。ここには「悲壮感も漂っている」とも言われる(斎藤一九馬「大介護時代がやってくる。世代を繋いで考えて行こう」週刊金曜日2022/10/14)。どうしてだろうか。
ケアの不安とは強者が弱者になるという不安なのかもしれない。とりわけ自由に生きることを信条としてきた団塊の世代にとって、不自由の予感が不安をもたらしているのだろうか。

 ここでとりわけ強調されているのが団塊の世代の「当事者」性である。ここでいう「当事者」とは、そう遅くない時期にケアを必要とするかもしれないという自分たち、すなわち権利主体としての「弱者」のことだろう。しかし、団塊の世代には世代としての責任と役割がある。当事者であればなおのこと責任は国や政府にあるというだけではすまない。「高い給与と十分な年金」をはじめとして、食い逃げ世代、仕切られた福祉の受益者などと団塊の世代を形容する言葉は多い。団塊の世代が「弱者」として自らの利権を主張するとき、「いまさら何を言う。自分たちで尻をぬぐえ」(同上 斎藤一九馬)という意見が出てくることも無理はない。
 もとより、介護保険の問題はコストの負担の問題である。介護保険導入時の最大の課題は負担の問題であり、そこに「国民的合意」がなされた。今後どのようにして「国民的合意」を形成するのか。

 2025年と区切ってみても危機はケアに限ったことではない。仮に新たな負担の「国民的合意」を作ろうと思うのならば、例えば資産への課税のように、当事者の身を切る覚悟を示さなくてはならない。そしてまた、介護や医療に費やされている厖大な費用、社会福祉法人や医療・福祉複合体の利潤の妥当性も問われる必要もあるだろう。社会が負担している介護費用はどれほどケア労働者に分配されているのか。団塊の世代がもちまえの専門知識と経験(そして時間)を生かして天下りや世襲、親族経営などのブラックボックスを解明することも、負担に対する「国民的合意」への一歩ともなるだろう。

 団塊の世代は、制度要求とともに相互扶助のしくみづくりにもチャレンジするという。それはそれで立派なことだろう。それにしてもどうして団塊の世代の政治のスタイルにはクラシックなイメージがつきまとうのだろうか。それは、数を頼んだ既得権の防衛だろうか。それとも人脈をフルに活用したロビー政治だろうか。それを市民の力と呼べばそれもまた民主主義となるだろう。しかし、この(昭和的な)政治のスタイルが若い世代の不信を加速しているのではないだろうか。

ケアの技能

 前述のシンポジウムの記事では、「お仕着せの『介護』を黙って受け入れるとは考えにくい。ここがおかしい、あそこをこうしろと要求するに決まっている(と意気軒高?)」という参加者の意見が紹介されている(同上 斎藤一九馬) 
 ここでは、ケアとはお世話されることだとして少しも疑われていない。しかし、介護保険は医療モデルから生活モデルへの転換だといわれる。これまでの医療モデルにおいては、医師という専門家が治療方針を立て患者はそれに従う。それが患者の役割であるとされた。しかし、介護保険においては、ケアはお世話を受ける権利から自立支援へのアクセス権へと転換したのではなかったか。

 ケアとは、日常生活活動の技能(身体的及び社会的)の低下に介入する技能(スキル)のことである。本来人の日常生活活動は技能(スキル)によって支えられている。しかし、人の動作や行為が技能であるという単純な事実が少しも理解されていない。子どもはこうした技能を成長の過程で努力して身に着け、社会の一員となる。そして、日常生活活動という当たり前のことが当たり前にできなくなった時にケアのニーズが発生する。

 ケアとは、だから、日常生活活動の自立に向けて技能の再建に向けたケアする側とされる側との共同の事業(協働)のことである。さらに、ケアには常にケアをする側とされる側という一対一の関係が存在し、両者の間には技能と役割の非対称性がある。その技能は身体を離れることができないから、両者の非対称性は解消できない。だから、ケアされる側は本来的に弱い立場であり、他者への依存関係によって拘束される。この依存関係が、両者の間での上下関係や差別を発生させる。
 そこではいくらケアする側が働きかけても、ケアされる側の快・不快などのその時々の気分や感情が優先する場合もあるだろう。あるいは、ケアする側に際限なく依存するかも知れない。しかし、ケアが共同の事業であるためには、相互の社会的な規範の共有が前提となる。規範の共有がなければ協働は成立しないからである。

 動作であれ行為であれ、そこには、例えば箸の上げ下ろしに始まり、総じてマナーや常識といわれるような社会的な規範が存在している。規範は倫理や法の基底をなすものだが、そのレベルは一様ではなく、また時代によっても変化する。しかし、「度が過ぎる」など、社会的な許容のレベルは存在している。いくらケアされる側の感情が優先されるとはいっても、暴力行為やセクハラについても受け入れろとはいい難い。あるいは、子どもではないから、快・不快の感情のままに感情を爆発させれば非難の対象ともなる。権利主張もまた社会的な規範と節度の中にある。
 ケアする側はケアされる側と規範を共有し、ケアされる側に役割演技を促すことはケア労働者にとっての技能(スキル)である。そしてその技能には言葉や仕草、表情、総じて両者の関係性の作り方までが含まれる。

老人のケア

 老人の場合、年を取ることによる機能の低下は本人の責任ではないから依存が許されると思われがちである。しかし、年を取ることはそのまま病人になることではないから、老人の場合であってもケアする側への過度の依存を断ち、自立と尊厳を守ることは本人の責任である。
 とは言っても、老人が素直に運命を引き受けることは稀である。老人は弱さに抗い、弱さを認めない。自分は「他の老人とは違う」とも思う。そこにはこれまでの人生の歴史を背景として世代が共有する独特な振る舞い方と、そこで培われた独自の規範がある。とりわけ団塊の世代には、自分たちが社会を支えきたという自負心も加わる。
 頑固、偏屈などと老人にかかわる形容詞は多く、時に「老害」ともいわれる。しかし、「あるがままの私」ではいけない。嘘だと思うなら、巷にあふれる(男性)老人の生き方の指南本を手に取ってみるとよい。そこにはいかにすれば地域の(元気な中高年女性の)コミュニティに受け入れられるかというノウハウ(清潔さを保つ、あいさつなどのマナー、人の話を聞くなど小学生が学ぶようなこと)がこと細かに記載されている。

 このような老人という独特の存在を日常生活活動の遂行へと促すために、ケアをする側は困惑し、うろたえながらも絶えずアプローチを繰り返す。穏やかに暮らすことを願うこともまたケアだからである。そして、隙をみながら老人の技能(スキル)に介入し、自らの感情をコントロールできるように誘導する。このように、ケアは「スキルに介入するスキル」のことであり、ここに医療とは異なるケアの専門性が存在する。
※こうした日常生活活動の技能への介入という点では、老人のケアは保育に似ている。高齢者の場合は身体的及び社会的な日常生活活動の技能の低下と再獲得に介入するが、発達途上にある子どもの場合は日常生活活動の技能の獲得に向けて介入するのである。

ケア事業者はケアを知らない

 それでは、ケアの現場ではどれほどこのようなケアの専門性に自覚的だろうか。

 ケア労働はエッセンシャルワークであり、ケアにリスペクトとも言われる。しかし、一方で労働集約型の単純労働(すなわち非正規労働者の担う低賃金な労働)であり、ダーティー・ワークだともいわれる。いずれにしてもそこにケアのスキルや専門性が省みられることはない。そして、誰でもできる単純労働という位置づけがケア労働が低賃金であることを可能にしている。
 ケアの専門性が信じられていないことは、政府の提唱するキャリアアップや介護段位などのケア労働者の地位向上のためのしくみにおいてもよくわかる。ここで評価の対象はスキルではなくマネジメントとなっているからである。ケア労働者のキャリアアップとは端的に管理職になることなのである。
 ケア労働者に求められているのは、技能(スキル)の専門性ではなく、おもいやりややさしさ、総じて倫理である。しかし、ここでの倫理とは社会的な規範のことではなくカント的な天下り倫理のことであり、曖昧に、しかし絶対的な命令として便利に使われている。かくして、ケアで発生する様々な問題はケア労働者のスキルの問題ではなく、人格の問題(倫理感が足りない!)とされる。

 そしてさらに加わるのが自己責任と自助努力である。ケアは「気づきの労働」だといわれるが、「気づき」とは空気を読んで自発性を発揮することである。あるいは、ケア労働者のストレスなどの感情の管理もまた自己責任であり、カウンセリングやセラピーなどの「ケアする人のケア」によって対応が行われる。
 こうした事情はケアの養成機関も変わらない。養成機関(や福祉学者)はケアが(医学のように)科学的なものでありたいと願い、ケアが技能すなわち経験技術であることを認めない。そもそもケアが技能であることを知らない。だから、ひたすら資格の取得に専念し、あとは現場で学べという。試しにケア事業所の経営者や施設長にケアの専門性とは何ですか? と聞いてみるとよい。ほとんどの場合は口ごもり、熟考の果てに知識と倫理と答えるだろう。

クレームの文化

 「嫌われても主張すべきは主張する」、こうした自己主張は団塊の世代の特徴だと思われているが、今日でははるかに一般的なものとなっている。自分たちはサービスを買っているのだから、やり返す権利を持たない者に不満をぶつけるのは当然の権利だと考えられており、それは、サービス産業における「感情の商品化」が作り出した一つの文化となっている。
 お客様は神様だとはいわないが、ケアにおいても市場の金銭関係や契約関係がそのままに持ちこまれ、ケアされる側の権利とケアする側の義務が主張されている。

 そして、「主張すべきは主張する」と団塊の世代が言うとき、その相手は施設ではなくケアの直接の担い手だろう。態度が悪い、やってくれない。しかし、ケア現場での権利主張は制度に対する権利要求のようにすっきりとはいかない。ケアする側とされる側のギクシャクした関係がケアにとって良くないことだとも感じるだろう。さらには「嫌われる」ことが不利益につながるのではないかという不安もあるだろう。しかし、「主張すべきは主張する」ことが正しいことだという信念も揺らがない。苦情を通じて「気づき」を促し、ケア労働者を「教育」してサービスの質を上げるのだという信念がそこにあるのだろう。

 そして、ケア施設もまたクレームを積極的に利用する。守られるのはケア労働者ではなく顧客である。顧客のクレームは(倫理のように)反論の余地のない絶対的な命令として利用できるからである。今や業務命令は上司が出すのではなく顧客の口を借りて行われる。だから「苦情は宝の山」だとされる。ここで起こっていることはガバナンスの放棄である。

同感の関係

 多くのケア労働者は「人のために役に立ちたい」と考え、豊かな人間関係が労働として成立するやりがいのある労働だと感じている。若い世代が様々な小規模ケアの事業所を作り出してきたのも、こうしたケア労働の持つ性格によっている。
 ケアは感情交換を通じて同感の関係を作りながらケアされる側に役割演技を促していく労働である。よく言われる、「ありがとうといわれてうれしい」とは、感情交換の成立を示す言葉である。しかし、同感の関係を願って感情交換を行うことは、何もケアに限ったことではなく、人間の本性である。そこでは、同感してもらおうと自己の振る舞いを調整する。そしてさらに、相手の反応(感情表出)を確認し、そのことによって自分の感情表出の適切さもまた確認される。こうして、感情交換が繰り返されることによって共通の規範と自己が形成される(アダム・スミス「道徳感情論」)。

 しかし、一方でこうした同感の関係は容易に実存的な関係(あなたと私の関係)へと転化する。さらに、相手が弱者であることがこの関係を加速する。この同感関係の存在が「ケアの心」を発生させ、ケア労働に意味を与えると同時にストレスをもたらす。同感関係が昂じれば「あなたと私」の実存的な関係は対幻想となり、ケアする側の心からの奉仕とケアされる側の限りない依存が生まれ、ケア労働者の燃え尽きの原因ともなる。さらに、「心からの奉仕」が賞賛される一方で、それが「偽りの自己」かもしれないという自己分裂がケア労働者の内面を壊していく。

スキルのギルド

 このようなケアの不条理にどのように対処すればよいだろうか。
 その鍵もまたケアの技能(スキル)にあるだろう。ケア労働者を実存的関係に自閉させないために、利用者との一対一の関係をもう一つの関係、ケアの技能を共有するケア労働者同士の横の関係へと転化していかなければならない。それは同時に、共に演技する職場の仲間の発見である。
 もとより労働の意味とは、今も昔も仲間との相互承認のことである。そこでは、不平や不満を笑い話にしたり、仲間と一緒にうさを晴らすこともあるだろう。毎晩の飲み会で愚痴や不満を共有してきた団塊の世代を想起しよう。

「あのケアはよかった」「こうしたらうまくいった」「次はこうしてみよう」などとしたケアの技能を仲間内で相互に評価し、模倣することが必要である。技能とは属人的なものであり、技術のように誰でも手順を踏めば同じ結果が得られるものではない。技能の習得には模倣し繰り返す努力、すなわち修練が必要である。

 ケアの技能(スキル)を共有する集団とはギルドのことである。そしてそれは、ケアの専門のスキルを独占する団結を基盤とする。ギルドとは、だから、労働組合に解消される存在ではなく、あるいはイデオロギーや主義主張の結社、綱領に基づく組織ではなく、スキルを共有し交換する不可視の共同体のことである。
 そして、古来、ギルドとは技能の独占団体のことであったように、このギルドは相互扶助の組織に留まらず、スキルに対する金銭的な価値を設定し要求することが必要である。そこでケアのスキルのもたらす利益・利潤を防衛しなくてはならない。「ありがとう」という感謝の言葉によって満足を得るのは労働の不等価交換に他ならない。
 もとより技能が市場の中で評価され利潤をもたらすことは一般的なことであり、現に介護福祉士という「資格」がそのように機能しているだろう。しかし、スキルのギルドは既存の「有資格者」の集団ではない(だから、外国人労働者を排除する理由は何もない)から、専門家集団として新たに自己を形成する必要がある。

 スキルは属人的なものであり身体から離れることができないし、また、言葉で伝えることができない。故にマニュアル化も困難である。だから、その集団形成は、スキルの共有の意識的な実践の中で行われるだろう。スキルはその時々の判断を積み重ねて一つのスタイルとして定着・共有するほかない。スキルのギルドはスキルの共有の方法を工夫し、何よりもこれに名辞を与えることが必要である。例えば「宅老所のケア」のようにである。
 ケアのスキルは、日々のケアの実践から絶えずエネルギーの供給を受けながら、さながら貨幣のように交換され、流通する。

「老人の中へ」

 団塊の世代が提唱する介護保険の改悪反対も、互恵による弱者支援も、また議会を通じた地方政治へのコミットも意義あることに違いない。しかし、危機を憂いて「私の健康」を政治問題にする前に、当事者として「私の健康」の維持に努力すべきではないか。さらに他の老人たちに対して、あるがままではいけないと自らの見識を示し、規範の共有を促すこともまた団塊の世代の役割となるだろう。
 その上で、団塊の世代と若い世代が連携するとすれば、それは、「物わかりのよい老人」になることでも「嫌われても主張すべきは主張する」ことでもない。ケアの問題を利用者とケア労働者の問題にしてしまうことは、問題の解決にはつながらない。ケアされる側とする側が健全な関係を作ることが必要であり、そのために、団塊の世代はケアが技能(スキル)であることを認め、「当事者」としてケア労働者を支援する必要がある。

 元々団塊の世代には親の介護に携わってきた人も多い。今再び、団塊の世代自ら「老人の中へ」入ることである。いまやケア労働は危機に瀕しており、老々介護は一般的なことなのだから、団塊の世代自らがケアの現場に就労してケアのスキルを現場で学ぶことは合理的なことだろう。

 ケア労働者のスキルのギルドは、今、ここにあるケア集団(共同体)の規範から逃れられない。だからそれぞれのケア集団に固有のケアのスタイルが不可避的に存在する。ケアのギルドが自閉しないために、自らの集団から外に出て他集団の規範を知る必要がある。人間が対他存在であるように、スキルのギルドもまた他者を通じて改めて自己を確認し、再形成する。団塊の世代は、こうしたスキルのギルド形成に力を貸すべきである。
 それは不満やクレームとしてではなく、「当事者」からの「ここをこうすればよい」「ここがよかった」としたアドバイスを行うことであり、ケア労働者の形成するスキルのギルドに外部から介入し、あるいは自ら参加することがスキルのギルドを外部に開いていくことにつながるだろう。

壊れた労働の再建

 確かにケアがなければ社会は維持できない。しかし、2025年を待つまでもなく介護保険は人材の枯渇でこわれ始めている。はたして、若い世代にケア労働を強制できるだろうか。人間はモノではないから、いくら都合よく使おうとしても「怠業」(サボタージュ)が発生し、対応のすべがない。
 団塊の世代の後にはロストジェネレーションが存在する、膨大な非正規労働者群である。彼らは就職氷河期を経験し、まともに働くことすらできなかった世代であり、将来の高齢貧困層の予備軍とも言われている。若者は、正社員でなければ負け組になるプレッシャーの中で就活に汗水流し、就職できずに自殺したり、過労による自殺に追い込まれてきた。そんな若い世代に対して団塊の世代の「尻をふけ」と主張できるだろうか。若い世代もまたそれぞれの人生を生きていることを忘れてはならない。

 今日のケアの問題とは、金の問題であると同時に端的にケア人材の問題なのである。人材の不足とは、今日の新自由主義の労働の結果である。労働者を食い物にするのはブラック企業や闇バイトだけとは限らない。ケア業界もまた低賃金であることをメリットとしてケア労働者を使いつぶしてきたのである。
 ケア労働は人類発祥以来の古い労働であると同時に、感情労働として典型的な現代の労働となっている。ケア労働者は、自らの労働に社会的労働として形を与え、労働から失われた紐帯を作り出す必要があるし、またそれが可能である。ケア労働とは市場の中にありながら市場原理に収まりきらない労働だからである。そして、そのためには、ケア労働者と団塊の世代が連携しながらケア労働を自分たちのものとして取り戻すことが必要である。

 団塊の世代は、当事者の権利要求としてではなく、壊れた労働の再建としてケアを支える世代と連携すべきである。そのためにスキルのギルドの乱立に手を貸すべきである。

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