ケアの専門性とは何か
相手の心の中にうまく介入していくことが(支援の)スキルである。
(都内母子生活支援施設2021年)
資格と機能の非対称性
ケア労働は専門的な労働であり、ケア労働者は専門職であると言われて久しいが、その専門性とは何かについてはあまり明確ではない。
例えば、事業所で幹部職員に、「ケアの専門性をどのように考えていますか?」とたずねてみる。大体の場合は一旦口ごもる。そして、専門知識や研修、気づきといった話になり、さらに個人的な経験談の披露となる場合が多い。ケアの専門施設が自らの専門性を明確にできないことは奇妙なことに違いない。
ケアの専門性とは何か。とりあえず、専門性の定義を考えてみる。
専門性とはまずは資格であり、資格を持つ者が専門家といわれる。資格は一定の技能のレベルを国家などが保証したもので、そのことによって専門性が社会的に認知される。
一方で、世の中には社会的に認知されていても資格を持たない専門家もたくさんいる。音楽家や芸術家、手品師、祈祷師、芸妓あるいは学者。イギリスには執事という専門職があり、メリーポビンスは家事の専門職であろう。さらに、掃除や洗濯、収納の専門家、様々なコンサルタントやカウンセラーなど自称他称の専門家はたくさんいる。しかし、スリや詐欺師は社会的な認知がないから専門職とは呼ばない。よく「俺には売れないものはない」などと言う営業の専門家の言葉を耳にするが、これは詐欺というのではないのかと疑問がよぎる。
専門性の第二の条件として、専門家と顧客の機能の非対称性があげられる。専門家は顧客にはない知識や技能・技術を持っている。ここでは専門家と非専門家との間で役割を交換することがありえない。生徒は教師になれないし、患者は医者になれない。つまり役割の互換性がない。こうした技能の非対称性から権限が生まれ、職種の区別が生まれる。
しかし、この役割の非対称性は固定的なものではなく、状況の中で交換される可能性を常に持っている。医者と患者は病院では専門家と顧客の関係だが、例えば患者がレストランの料理人であれば、そのレストランでは患者が専門家で医者は顧客という関係になる。ここでは病院での専門家と顧客の関係は逆転する。
ケアの場合には、さらにもう一つの特徴が加わる。それは専門家と非専門家の間の知識や技能・技術の差異に加えて生物的な機能の差異の存在である。この生物学的な機能の低下が日常生活の活動に制約を作り出している。専門家と顧客の間に知識や技能・技術の非対称性は交換されうるが、生物学的な機能の非対称性は交換できない。ここにケアと他の一般的なサービス労働との違いが存在する。
日常生活活動の2つのスキル
日常生活活動はスキル(技能)によって組み立てられている。
ここで言うスキルとは、話す、歩く、顔を洗う、歯を磨くなど、通常はだれにでもできる動作と行為を指し、数え上げればきりがない。こうした日常生活のスキルとは身体を使いこなす技能のことであり、とりたてて特別な能力を必要とせず、誰にでもできるし、そして誰にでもできるように成長の過程で身に着けたものである。私たちは普段こうしたスキルを意識しない。それはこれらの動作が定型化されているからである(体が覚える)。
わかりやすい例として自転車に乗ることを考えてみよう。最初から自転車にうまく乗れる人はいない。最初は見ように見まねで幾度か転びながら練習し、ある瞬間に思いかけず乗れるようになる。それから先はどんどん上達し、やがて特に意識することなく自転車に乗れるようになる。体が覚えるのである(習うより慣れろ!)。
さらに、日常生活のスキルは身体的なものにつきるわけではない。動作には生物学的には自由であっても社会的には制約されるようなことが起こる。話し方や表情、食事の作法、正しい箸の持ち方、乱暴な動作をしないなどの日常生活を送る上で求められるふるまい方(マナーや作法)がある。これを身体的なモータースキルに対して社会的な技能、ソーシャルスキルという。
動作に対する社会的な制約は動作に公共的(社会的)な性格を与える。この社会的な性格は規範として共有されることで自分の振る舞い方と同時に相手の振る舞いをも予測可能なものとする。子どもはこうしたスキルを身に着けて社会の一員となる。かくして人間社会はありのまま自然と区別され、第二の自然と呼ばれる。
このように日常生活はスキル(技能)によって組み立てられているが、通常私たちはこのスキルを意識することはない。しかし、障害や加齢などによって体が不自由になったときに、私たちは日常生活がスキルによって支えられていたことに気がつく。そして日常生活活動のスキルの再学習や機能低下を遅らせるという課題とニーズに直面し、ケアが必要となる。
ケアとは日常生活活動の能力・スキルを獲得あるいは再獲得していくための活動であるから、これもまたスキル(技能)である。実際に、子育てや病人の世話など、ケアは古くから行われてきたからといって誰でも最初からうまくできるわけではない。相談したりアドバイスを受けながら試行錯誤を繰り返し、ケアの方法を身に着ける。
スキルとは何か-技能と技術
スキルとは何だろう。スキルという言葉は、ITのスキル、スキルアップ、リスキリングなど、日常的に使われている。一方、スキル(技能)とは別に技術という言葉がある。ケアにおいても支援技術や介護技術、コミュニティ技術というように技術という言葉が多用されるが、スキル(技能)という言葉はあまり使われない。しかし、支援技術をテクノロジーと呼ぶには違和感がともなう。スキル(技能)と技術とはどのように違うのだろうか。
技術は英語ではテクノロジーと呼ばれ、科学技術と訳される。今日、科学とは自然法則(真理)の意識的適用であるとされ、そこに法則性や因果関係があり、普遍性と再現性(誰がやっても同じ結果がでる)ことが特徴となる。
医学はそれまで医術や占星術、呪術、魔術などと混然一体のものから、感染症の原因(細菌)の発見によって原因と結果という因果関係を手中にして科学となった。人体における「客観的法則性」の発見である。こうして、医学は人の日常生活活動を対象とすることをやめた。技術は画一的であり、人間や生活という個別性と多様性を相手にできないからである。このことによって、医療は自らの対象としない、あるいはできないケアという領域を医療の外部に追放することになったのである。
ケアに限らず生活の中での技能は科学技術とは性格の異なる「もう一つの(オルタナティブな)技術・経験技術」である。例えば有機農業や発酵などの世界を考えればわかることだが、生物を扱う技術は経験技術であり、経験技術でなければならない。
プログラムへの合意-共同の事業
支援とはお世話することや利用者の要求を無条件に受け入れることではなく、自立支援計画などのプログラムに基づいて行われる。そこでは利用者が日常生活を円滑に送るうえで必要とされる課題を発見し、目標を設定し、その目標の実現への誘導などが行われる。
自立支援計画におけるプログラムは、学習や機能訓練などのように特定の課題に基づいたものや一定の場面を区切って一対一で対応するカウンセリングや相談などとは違い、日常生活活動の中で実施される。つまり、日常生活活動の中での働きかけそのものがプログラムの実施であり、支援の内容となる。それはさりげないコミュニケーションやレクリェーションの工夫、あるいは日々の作業だったり、食事や話し合いの場面であったりと様々である。
こうした支援は直接支援とか直接援助といわれ、そこでは最も多くの職員が携わるまさに支援の現場である。そして、支援の目的がお世話することではないとすれば、そこにはプログラムに対する同意が不可欠となる。それは、支援が共同の作業であり、プログラムの実行は本人の役割だからである。利用者の役割の存在は当事者主権や自己決定の尊重とは別の話である。
このようなプログラムへの同意はケアに限った話ではなく、ダイエットや学習、あるいはカウンセリングなど様々なプログラムがある。専門家はそれぞれの顧客に最適と思われるプログラムを作成し、顧客はプログラムの意味と目的に同意した上でプログラムを実行する。あえて言うなら、顧客はプログラムを金で買う。ここに、専門家に対する顧客の役割があり、ケアにおいても例外ではない。さらに言えば、商品やサービスを購入する場合も同じ手順を踏むだろう。
利用者の役割というと奇異にきこえるかも知れない。私たちは日常生活の中で様々な社会的役割を担っている。会社員であると同時に親や子であるという役割がある。あるいは公私の区別がある。人は社会的な役割に応じて演技を行なう。これを役割演技という。
病者や障害者の社会的役割では、病者(患者)は病気やケガによって通常の役割遂行ができなくなった存在であり、そこでは自己責任は問われない。そして医師の指示を一方的に受け入れることが病者の役割となる。病者は社会的属性を離れて患者という匿名の存在となり、やがて病気が治癒すれば社会に復帰する(ただし、慢性期医療の場合は障害モデルに近い役割となる)。一方、障害は一時的なものではなく永続的であることから、障害者には身体機能のレベルの維持も含め、可能な限り社会的な役割を遂行し社会に適応していく努力が求められる。
同感の関係-感情の等価交換
プログラムへの同意と実行が本人の役割だといっても、ケアの場合、それが困難な場合が多い。第三者評価の利用者調査で自立支援計画の理解をたずねると、ほとんどの利用者が理解できていない。あるいは計画の存在すら知らないという場合も多く、結局家族などが計画への同意を代行する場合も多い。
対象が老人や障害者、子どもなどの場合には、規範の共有が行われていない場合も多く、利用者といくら話をしても手ごたえがない。返事はするがどこまでわかっているかはわからない。利用者調査ではこうしたことをしばしば経験する。
支援においては、コミュニケーションは「専門的処遇」(福島一雄 同上)としてその重要さが重ねて強調されることが多いが、言葉は規範の共有を前提としているから、多くの場合、言葉を介してのコミュニケーションは困難である。そこで、コミュニケーションは相手の感情を読み取ること(感情交換)を通じて行われる。さらに、両者の間には役割の非対称性があり、お互いに相手の反応を受け止めながら自分の感情をコントロールするという通常の感情交換は期待できない。したがって、支援者は感情の等価交換の実現を願いながら「一方的に」利用者との同感関係を成立させ、維持する努力が必要となる。
感情を読み取るといっても、感情はモノでも電気信号でもない。ある感情に対して脳の特定の部位が光り、テレバシーで他者に感情というモノが発信されるのでもない。感情は前言語的な現象であり、感情と呼ばれている何かである。私たちは他者の感情を直接知ることはできない。
利用者がうれしそうな表情や仕草をしている、支援者が相手に見るのはこのような感情の表出行為である。支援者は相手の感情を感情表出行為の中に読み取って、応答を返す。この同感という心的能力をアダム・スミスは(sympathy)と呼んだ(「道徳感情論」)。
支援者は相手の立場に身を置いて、自分だったらどう感じるかを想像し、相手から同じような感情を引き出そうとする。想像した自分の感情と行為が相手のものと一致するかどうかを検討する。相手は、自分の反応が受け入れられればうれしいと感じる。また、否認されるならば残念に思い、振る舞いを修正する。このように感情交換は相互的な行為である。
相手が期待通りに対応すれば、支援者の働きかけというスキルが(相手の中で)実現したのであり、期待通りに動かなければ支援者の働きかけは挫折したのである。支援においてこのアプローチは絶えず行われ、成功と挫折が繰り返えされる。
こうした感情の交換のプロセスは、言葉(テキスト情報)によるコミュニケーションに慣れた私たちにとって、奇異なものにも映るかもしれない。しかし、同時にひどく一般的なことでもある。保育士であれば子供に対して同感の身振りを返し、子どもの感情表出と表現の調整を助け、やがて、相手の反応の中に自分の感情を感じ取る。カウンセラーであれば、顧客に意識的な同意を繰り返し、顧客はカウンセラーの判断に自らの感情を委ねる。
ここでは、表情や声のかけ方、話し方、タイミングの設定などのスキルが不可欠である。ここでは冗談やため口などの臨機応変の対応もまたスキルであり、そしてそのスキルは演技(社会的な役割遂行、役割演技)として自覚されなければならない。しかし、ケアにおいては、共に生きる、同じ仲間など、支援する側とされる側は対等な関係でなければならないことが強調される場合も多く、役割演技は「ふり」をすることであり、偽りであるとして後ろめたさをもたらしたりもする。しかし、同感とは社会的な関係であり、相手の感情に身を委ねることではない。支援する側が役割を演じることは職業倫理でもある。
さらに、ここで留意しなければならないことは、このような非対称的な関係においては、支援が支配・被支配の関係に転化する可能性を常に持っているということである。また、相手が弱者であることが逆に、「ケアの心」を発生させ、支援される側の過大な要求や同感の要求が倫理の名のもとに正当化されやすいことである。
※医療において医者と患者との関係がパターナリズム(父親的温情主義)であるとしばしば批判の対象となるが、そもそも医療は同感や共感を前提としない以上、ケアを同列に論じても意味がない。
スキルの共有
現場では新人からマニュアルがないから支援ができないと言われて困惑するという話はよく聞くが、だからといって支援をマニュアル化(標準化)することはなかなか難しい。一方のマニュアルは、定められた手順に従って行えば、誰でも指示通りに行えば、同じ結果が出せるようにすることを身上とするが、支援はそうはいかない。一つには対象となる利用者が多様であり「標準化」されていないこともあるが、スキル(技能)は、その担い手(身体)から切り離せない(属人性)。また、暗黙知(カール・ポランニー)と言われるように、うまく言葉で言い表すこともできない。だから、スキルをマスターするためには多少なりとも修練が必要となる(例えば、自転車のように)。そして、どこまでもカンやコツが残えると同時に、担い手の個性が出る。
ケアとは基本的には、これまで人類が長い間行ってきた行為であり、匠の技や職人芸として存在しているわけではない。だからそのスキルも修練を通じて誰でも身に着けることができる。スキル身に着けるためには、例えば、〇〇さんという具体的な人(例えばリーダー)の支援のやり方をまねながら繰り返すことが重要である。そのコツやカンを仲間と共有する時、その集団のケアの標準化が行われる。
実際のところケアに携わる人は日常的にスキルに基づくケアを実践している。しかし、それがスキル(技能)であり、専門性であると社会が認めないし、本人もまた自覚していない。自らのスキルを自覚するためにも、まずはスキル(技能)という言葉を濫用し、定着させることが重要である。